知里幸恵について
知里幸恵について
『アイヌ神謡集』を遺して19歳で死んだアイヌの少女。言語学者金田一京助の研究に大きく貢献した。
1903(明治36)年登別の幌別生まれ。父は知里高吉、母はナミ。
知里幸恵は当時のアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業していた。そのうえ、当時においても、ほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。アイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、祖母モノアシノウクと生活していた幸恵は、十代の少女であるのにもかかわらず、多くのユーカラを諳んじていた。幸恵は、アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、願ってもない存在であった。
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幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。金田一京助のアイヌ語研究が他から抜きん出、やがてアイヌ学の代名詞にまでなるに至るのには、幸恵の存在があってこそであったと言える。金田一をして、「語学の天才」「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」(「『心の小径』をめぐって」)と言わしめた幸恵であったが、もともと病弱であった幸恵は、わずか一冊の本を持病の心臓病を悪化させ、わずか十九歳で亡くなってしまうのである。
知里幸恵の存在は金田一にアイヌ学者としての栄誉を約束したが、突然訪れたその死は、深い罪の意識として、聖痕のように金田一の心を穿ったのだった。
事実、それからの金田一京助の生涯は、いわば幸恵に対しての償いの日々であったといえる。幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え(これは当時のアイヌとしては前例のないことである)、「わが後継ぎ」と頼める愛弟子として様々な世話をしたが、やがて真志保はつれなく師と決別するのである。
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そこには、アイヌとしてのアイヌ研究をしようとした真志保と、あくまで失われ行く文化の保存をしてやるのだという同情的、悪くいえば独善的な姿勢の金田一との意見(本人はそう思っていないにせよ)の相違もあったが、実際のところは、「感情的」な問題であったのではないか、とも思える。もっといえば二人の心の中に生き続けた一人の少女「知里幸恵」の存在をめぐる、目に見えない軋轢が確かにあったのである。
金田一京助と知里真志保という、結果として二人の著名なアイヌ文化の研究者を生み出すもととなった知里幸恵はまた、違星北斗の心にも大きく影を落とすことになる。
故郷を遠く離れた東京の地で、北斗は『アイヌ神謡集』を手にする。十九歳のアイヌの少女が記した、美しいアイヌ語と、その日本語による先祖伝来の物語である。幼き日に北斗も、かつて炉端で祖父や両親から聞いたことのあるのと同じような神々の叙事詩が、はるばる訪ねてきた東京で、かわいらしい装丁と活版印刷でもって、二十世紀の文明の輝かしい光をまとって、現実に重さを持った一冊の本として彼の手に渡ったのであった。
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「滅び行く民族」の汚名を押しつけられ、被支配者の立場に甘んじている同胞から、東京でこのように本を出すような者が出たことが、どれほど違星青年を勇気づけ、奮い立たせたことだろうか。そしてまた、その最初のページを開いてから、本を閉じるまでに、どれだけの興奮と動揺とが彼を襲ったことだろう。
その『アイヌ神謡集』の中には、かつて自由に北の大地を駆けまわり、狩猟を生業とした勇敢で人情を尊ぶアイヌの失われた生活が、その豊かな精神生活とともに凝縮されていたのである。そこには彼が北海道に残してきた現実のアイヌの生活―――「劣等人種」のレッテルを貼られ、蔑視と冷笑の対象にある同胞の惨状の姿などは微塵もなかった。和人の入植によって永遠に失われてしまった、アイヌの本当の生活がそこにはあったのである。
違星北斗が金田一の家を辞したとき、その手は『アイヌ神謡集』があったのではないかと思う。彼は東京で間違いなく『アイヌ神謡集』と出会い、知里幸恵と出会っている。
そしてその瞬間から、彼の中には知里幸恵の思い描いた失われたコタンが、一つの理想的存在として厳然と存在し始めたのではないかと思う。
一年半の後、彼は東京を去って北海道に帰るが、それからの短い生涯はすべて、差別も闘争もない「コタン」の実現をのぞみ、失われた原風景としての「コタン」を憧憬し、また知里幸恵の描き出した純粋な理想的世界としての「コタン」を自らの誇りの根拠として胸に抱いて、和人の搾取と蔑視、そして貧困と疫病と酒害とにまみれた、さびれ打ちひしがれた現実のコタンをめぐることに費やされることになるのである。
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