時間(じかん)は、できごとや変化を認識するための基礎的な概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などの重要なテーマとなっている。それぞれの分野で異なった理解のしかたがある。
[編集] 今日の日常的な意味での時間
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。
- ある時刻と別のある時刻の間(時 - 間)。およびその長さ。
- 時刻。つまり、時の流れの中の一点のこと
- (哲学寄りの概念)空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり[1][2][3]、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの[4]。
時刻という意味で時間という言葉を用いるのは、日常語[5]、ないし俗語[2][6]とする辞書もある。
(1)の意味の時間、すなわち時刻の間およびその長さというのは「この仕事は時間がかかる[7]」とか「待ち合わせ時刻まで喫茶店で時間をつぶす[7]」などのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば「5時間(five hours)」「2日(2日間、two days)」「4ヶ月(four months)」などがある。
(2)の意味の時間すなわち時刻は、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)である。これを数的に表す表現には例えば、5時(five O'clock)、2日(the second day)、4月(April)などがある。
(3)の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。カントなどの指摘にもとづき現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。一般に人は日常的にこの意味での時間を"流れ"としてとらえていることが多い。例えば時(とき)は、「過去から未来に絶えず移り流れる[3]」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」[1]などと表現されるのである[8]。なお、時間の流れに関しては、過去から未来へと流れている、とする時間観と、未来から過去へ流れている、とする時間観がある。(後述)
[編集] 長さとしての時
[編集] 現代の《時の長さ》の単位
《時の長さ》を表すのに用いられていること(ものさし、単位)としては、現代の先進諸国では一般的に[9]年、月、日、そして時間、分、秒が用いられており、また週(7日)も用いられている。さらに10年紀、世紀(センチュリー)、千年紀(ミレニアム)などが使われることもある。
[編集] 《時の長さ》を表すもの
人はもともと何かの変化を《時そのもの》として感じていた、何かの変化と時をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる。人々は数学的な意識では生きていなかったのであり、"単位"という概念も意識していなかったということである)。
《時の長さ》そのものと感じられていたことの中では、《日》はきわめて一般的であり広くどの文化でも見られると言われている。
《月》というのは、もともと夜に照明を用いずに生きていた人類にとっては強く意識されていた時間の長さであり、女性にとっては(古代の女性でも現代の女性でも)自身の身体や気分の変化で強く実感している時間の長さでもある。
《年》は神話的・宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の農耕活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の文明で広くもちいられている。
《週》というのは7日をひとまとめと見なす人工的な概念・制度(7曜制)であるが、これはある歴史的経緯を経て広まってきたものであり、近・現代になるまでとても万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期にそれは伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日等ごとに何かを行っていたのである。明治政府が国策として西洋各国に倣い法律で定めるたことで日本に広まったのである。何日かをひとまとまりとして見なす文化・制度としては、例えば5曜制、6曜制もあり、10日、90日などをひとまとまりと見なす文化もある[10]。 7日をひとまとまりと見なす文化は、(確かなことは判らない面もあるが)バビロニアが起源だとも言われている。そしてユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行された時に(バビロン捕囚)その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府(たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など)では7曜制を排止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという。[10]。
《時間》は人工的に作られたものではあるが、一日を12分割したりする発想はかなり古くからあった。
《分》《秒》などの単位はかなり人工的に作られてきた概念・単位で、歴史的に見ればかなり新しいものである。
現在視点で見れば、天体が見せる以下の周期的な現象(現代で言う天体の運動)をもとにして人類は時間の単位を決めてきた、と解釈することも可能ではあるかも知れない。
- 日没の周期や日の出の周期(太陽の見かけの動き、現在で言うところの地球の自転)→1日
- 太陽の見かけの高度が変化する周期(現在の公転)→1年
- 月の満ち欠け(現在で言うところの、月の公転)→(太陰暦での)1ヶ月 。
そしてそれが現在も暦として生き続けているのだ、とも解釈できるかもしれない。
西欧で13世紀ころに機械式(歯車式)時計が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、技術革新がおきるたびに、「以前の時間の計り方は不正確だった」などと見なされるようなことが長年に渡り続いた。そしてついには、原子の発する電磁波の周波数によって時間を決定する事となった。これが原子時計である。
現代の国際単位系では時間の基本単位として秒を定義しており、2006年現在では、「1秒はセシウム133原子(133Cs)の基底状態にある二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の 9,192,631,770(約100億)周期にかかる時間」と定義されている。そして国際単位系における基本物理量のひとつとされて世界的に統一された単位が定義され、社会生活や産業活動においてよく使われている。
「時刻」も参照
[編集] 自然の時間/人工的時間 と人間の健康
以上の《時間の長さ》を長いほうから短いほうへと並べれば、年、月、週、日、時間、分、秒ということになろう。
なお、科学者らが人工的で短い時間単位を思いつき、そうした短い単位に人の行動が支配されるようになったことで人々のストレスは増大してきた、といったことが指摘されることがある。
人工的に作り出された「秒」の長さ・周期というのは(いきさつ上)平均的な人間の平常時の脈拍よりも短く設定されてしまったわけだが、そうした(せせこましい)秒周期の音を(秒針の音などで)聞かされることや、あるいはそれを意識することが、人間にとって何らかのストレス源になってしまっている可能性が指摘されることもある。
人間は普段意識している《時間の長さ》の心理的な影響を受けることが知られている。また聞かされる音(環境音)の周期・リズムから心理的・生理的に影響を受けることも多くの実験で明らかになっている。さらに自分自身のその時々の脈拍をリアルタイムで聞いていると心地よい(心地よく感じていることを示す脳波が多く出る)ことも実験によってわかっている。もしも仮に秒の長さが現在の設定よりもいくらか長く設定されていて、人間の脈拍よりも十分に長くなっていたなら、秒針の音は人をもっとゆったりとリラックスさせるものになっただろう、と指摘されることがある。
現代生活の人工的で短かすぎる時間による過剰なストレスに苦しめられている人は、自然の時間で生きる生活を送ると(たとえば人工的な時間を表示する時計類は身体から離して一切眼に入らぬようにし、自然の中で暮らし、夜は照明を用いず日没後すみやかに眠るようにし、日の出にあわせて起床し太陽光を浴びるようにすると)、やがてストレスから解放され治癒される傾向がある、ということが知られている[11]。
時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。
時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。 古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午(noon)とされた。 つまり、時刻は、自然をもとに決められていた。現在のように機械式の時計を基準に定められたりなどしていなかったのである。
なお、1日のいつを1日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしている。またギリシアにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が1日の始まりだとされている。今日でもそうだとされているのである。1日は夜の闇の中で始まり、やがて夜明けを迎え、昼を迎え、最後に1日の終わりである夕暮れを迎えるのである。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。
一方で日の出の瞬間を1日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人やエジプト人は日の出を1日の始まりの時刻だとしていた。
西欧で中世以降に機械式の時計が登場してからは、人々は機械的意識にもひきずられるようになった。機械の針が0を示した時が1日の始まりだという意識である。これは自然と切り離されてしまった時刻観である。現代の先進国の人々は自然から離れてしまった機械的時刻を意識してしまうためストレスを感じている[11]。
「時刻」も参照
[編集] 古代宗教における時間
ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。
古代宗教における時間については、ミルチア・エリアーデが透徹した解釈を行った[12]。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される[12]。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、ヒエロファニー(hierophany、聖なるものの顕現)である[12]。周期的に営まれる祭儀は、本来、俗なる時間を中断して神が顕現する聖なる時間なのだという[12]。